2023年10月から放送の朝ドラ『ブギウギ』。
そんなブギウギで結核という病気を患っている村山愛助が死亡するのか視聴者は気が気じゃないですよね。
今回は
- ブギウギの村山愛助が死亡するのか
- ブギウギの村山愛助はいつ死亡するのか
- 村山愛助の死因は何か
- 村山愛助のモデル吉本頴右はどうだったのか
についてご紹介します。
【ブギウギ】村山愛助は死亡する?
2023年10月から放送のブギウギで、スズ子の恋人である村山愛助(水上恒司)。
そんなブギウギの村山愛助が2023年12月22日放送のブギウギで咳をした後に血を吐き、結核を患っていることが判明します。
ブギウギの村山愛助が死亡するの視聴者は気が気ではないですよね。
結論から申し上げると、
村山愛助は死亡します。
ツヤさんも六郎もなのに、愛助までは本当にしんどい…
いつ死亡する?
ブギウギの村山愛助がいつ死亡するのか調査したところ、
ブギウギ第18週の85話で亡くなります。
ブギウギの村山愛助のモデル吉本頴右(えいすけ)さんの死亡した年齢が、1947年(昭和22年)5月19日 24歳
です。
ブギウギの村山愛助のモデル吉本頴右(えいすけ)さんの顔画像はこちらです。
ブギウギでは脚本家たっての希望で「愛助の死を知るのはスズ子が出産した後」という設定になったようですが、実際は吉本頴右さんんが亡くなった半月後の1947年6月1日に笠置シヅ子さんは出産しています。
「脚本の足立紳さんは、スズ子に愛助の死を伝えるのは出産の後にしたいと強くおっしゃっていました。元気な子供を産んでほしいと願う愛助のためにも、子供が生まれる前に愛助が亡くなったことをスズ子に知らせることはできないと。それはスズ子にとって、あまりにも残酷すぎて……」
MANTANWEB
愛助がつねに言っていた「スズ子さんには安心して子どもを産んでほしい」という希望を叶えたのですね。
【ブギウギ】村山愛助の死因は何?
ブギウギの村山愛助の死因は、
肺結核
です。
村山愛助のモデル吉本頴右さんは肺結核をこじらせ、24歳の若さで亡くなっています。
明治時代から昭和20年代(1940年代)までの長い間、結核は「国民病」「亡国病」「不治の病」と恐れられ、日本人の死因第一位だったそうです。
スズ子たちの時代は1945年ごろです
村山愛助の病状は?
村山愛助の現在の病状はどこまで進行しているのでしょうか。
結論から申し上げると、
村山愛助の結核はかなり進行しており、重症というレベル
なようです。
2023年12月22日放送のドラマ『ブギウギ』で村山愛助は喀血(血を吐くこと)をしています。
肺結核の重症化した症状は、「だるさ」「息切れ」「血痰」「喀血」だそうなので、村山愛助の結核もかなり進行しているようです。
初期の症状はカゼと似ていますが、せき、痰(たん)、発熱(微熱)などの症状が長く続くのが特徴です。また、体重が減る、食欲がない、寝汗をかく、などの症状もあります。
さらにひどくなると、だるさや息切れ、血の混じった痰(たん)などが出始め、喀血(血を吐くこと)や呼吸困難で死に至ることもあります。
結核予防会JATA
村山愛助は病気がちだった
ブギウギの村山愛助の病気の経過を、モデルとなった吉本頴右さんの生涯から調査しました。
- 幼少期から身体が弱く、学校をよく休んでいた
- 18歳の時に胸膜炎で入院
- 身体が弱いことが理由で兵役免除に
村山愛助が18歳の時に発症した胸膜炎は、肺を包む膜である胸膜が炎症を起こし、肺の外側に水(胸水)がたまる病気です。
胸の痛みや咳、発熱を引き起こします。
胸膜炎は結核菌により発症するそうなので、村山愛助はこのころすでに肺結核を患っていたのかもしれないですね。
結核性胸膜炎の発症には、いくつかのパターンがあります。代表的な例は、結核に感染し、そのまま結核性胸膜炎になる場合です。もうひとつは、一度、結核に感染したけど発症しなかったが、ある日、体のなかに潜んでいた結核(潜在性結核)が再燃してしまい発症する場合です。
看護roo
【ブギウギ】村山愛助が死亡するまでの経緯は?
ブギウギでは、村山愛助とスズ子はまだ付き合ったばかりでこれからが楽しみという感じです。
村山愛助が死亡するまで2人はどんな生涯を迎えるのか、モデルとなった笠置シヅ子と吉本頴右さんの生涯から調査しました。
年月日 | 出来事 |
1943年(昭和18年)6月 | 出会う |
1944年(昭和19年) | 結婚を誓い合う |
1945年(昭和20年)5月25日 | 空襲で、笠置シヅ子と吉本頴右それぞれの家が焼失 |
1945年時期不明 | 吉本興業の借家で2人は同棲(同居人がいた様子) |
1945年8月15日 | 日本敗戦 |
1946年 (昭和21年) | 吉本頴右早稲田大学中退 |
1946年 | 吉本頴右の叔父・林弘高の会社に愛助が入社 |
1946年 | 吉本頴右と笠置シヅ子は同棲を解消(結婚のため) |
1947年(昭和22年) | 母・吉本せいが体調を崩す |
1947年 | 吉本頴右は実家大阪へ帰省 |
1947年 | 3か月後 笠置シヅ子妊娠発覚 |
1947年5月19日 | 吉本頴右死亡(24歳) |
1947年6月1日 | 笠置シヅ子出産(娘・エイ子) |
1947年9月 | 笠置シヅ子歌手として復帰し、『東京ブギウギ』をレコーディング |
1948年1月 | 『東京ブギウギ』が爆発的大ヒット |
1985年3月30日 | 笠置シヅ子死亡(70歳・生涯独身) |
結婚はしなかった
福来スズ子と村山愛助のモデルである笠置シヅ子さんと吉本頴右さんは、
結婚を誓い合い準備を進めていましたが、入籍する前に吉本頴右さんが亡くなりました
2023年12月22日放送のブギウギで、「早く働けば福来さんとのことも認めてもらえる」と言っていた村山愛助の言葉からすると、結婚を認めてもらうために大学を中退してまでおり、叔父の会社吉本株式会社に入社したようです。
ただ、会社勤めをするようになってから疲れも溜まり、飲み会などの付き合いが増え、吉本頴右さんは体調を崩すことが増えたそうです。
吉本頴右さんの体調を気遣って大阪の吉本興業本社に移ることを、笠置シヅ子さんが提案しました。
その後、吉本頴右さんは体調を崩して寝込んでいることを吉本興業の社員の手紙で知ります。
1947年5月18日に笠置シヅ子のもとに手紙が届き、「今が生死の関頭」と書いてありました。
関頭とは「わかれめ」って意味だよ
叔父の林弘高は、危篤である吉本頴右さんに会わせようと笠置シヅ子さんを大阪に連れてこようとしましたが、身重なシヅ子さんを思って頴右さんが断ったそうで、死に際に2人は会えていません。
未婚の母として出産
笠置シヅ子さんは、吉本頴右さんが亡くなった半月後の1947年6月1日に、
吉本頴右さんとの娘・エイ子さんを出産
します。
「娘だったらエイ子」と名付けてほしいというのは、吉本頴右さんの遺言だったようです。
生涯独身
笠置シヅ子さんは、1985年3月30日に70歳で亡くなります。
生涯独身を貫いた
そうです。
笠置シヅ子さんは、吉本頴右さんに出会った時にもらった名刺をずっと大事にしていて、「夫が初めて会ったときにくれたの」と周囲に話していたそうです。
「日劇時代は楽しかったね」がシヅ子さんの最後の言葉だそうです
今後のブギウギも涙なしに見られないと思いますが、村山愛助とスズ子の人生を見届けましょう!
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