【虎に翼】佐田優三は死亡する?いつ?死因は結核?モデル和田芳夫を調査

2024年4月から放送の朝ドラ『虎に翼』。

そんな虎に翼で佐田優三が死亡するという噂がありましたが、本当でしょうか。

寅子が2度結婚するということは…もしや…

今回は

  • 虎に翼の佐田優三は死亡するのか
  • 虎に翼の佐田優三はいつ死亡するのか
  • 虎に翼の佐田優三の死因は何か
  • 虎に翼の佐田優三のモデル和田芳夫はどうだったのか
  • 虎に翼の佐田優三が死亡した後、寅子はどうなったのか

についてご紹介します。

虎に翼・山田よね幼少期子役は誰?

目次

【虎に翼】佐田優三は死亡する?

2024年4月から放送の虎に翼で、猪爪家に下宿している佐田優三。(仲野太賀さん)

そんな虎に翼の佐田優三が死亡する?と噂されていますが、本当でしょうか。

そもそも虎に翼の佐田優三が死亡する?と噂された理由は、

寅子が生涯2度結婚し、1人目の夫が佐田優三だからです。

離縁したとかではなく?

寅子の2度の結婚は、佐田優三と寅子は「理由があって離婚」もしくは「佐田優三の死亡」という2つの説が噂になったようです。

結論から申し上げると、

佐田優三は死亡する可能性が高い

です。

いつ死亡する?

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虎に翼の佐田優三がいつ死亡するのか調査したところ、

モデルと言われる和田芳夫さんの命日、昭和21年(1946年)5月23日と同じ日ではないか

と思われます。

死亡時の年齢は?

虎に翼の佐田優三のモデル・和田芳夫さんの年齢は不明で、同様に「佐田優三」の年齢も不明です。

現在の虎に翼は、昭和8年ごろの話なので後13年後となりますね。(2024年4月15日現在)

あと13年なんて早すぎる…

佐田優三もモデルの和田芳夫さんも年齢不詳ですが、明治大学を卒業し、現在銀行員として勤務しているところを見ると20代前半~半ばなのではないかと思われます。(昭和8年頃)

昭和21年(1946年)の猪爪寅子の年齢は32歳です。

以上のことを踏まえると、虎に翼の佐田優三が死亡する年齢は30代後半かもしれません。

【虎に翼】佐田優三の死因は何?

虎に翼の佐田優三の死因は、

肺結核

だと思われます。

佐田優三のモデル和田芳夫さんに、昭和19年(1944年)に一度召集令状が届きましたが、検査で「肺結核の骨髄炎」が見つかって兵役は免れることとなりました。

明治時代から昭和20年代(1940年代)までの長い間、結核は「国民病」「亡国病」「不治の病」と恐れられ、日本人の死因第一位だったそうです。

寅子の時代は1930年~ごろです

佐田優三の最期は?

佐田優三の最期について、モデルの和田芳夫さんの最期に基づいてご紹介します。

佐田優三の最期は、

家族に看取られることなく長崎の陸軍病院に入院中に死亡

となるようです。

あれ?兵役無くなったんじゃなかったっけ?

佐田優三は昭和19年(1944年)に肺結核で兵役を免れましたが、昭和20年にふたたび招集されます。

この時佐田優三は、真面目な性格ゆえに病気を理由に兵役を断れなかったようです。

佐田優三は入隊後に行った中国で、肺結核を再発します。

初期の症状はカゼと似ていますが、せき、痰(たん)、発熱(微熱)などの症状が長く続くのが特徴です。また、体重が減る、食欲がない、寝汗をかく、などの症状もあります。

さらにひどくなると、だるさや息切れ、血の混じった痰(たん)などが出始め、喀血(血を吐くこと)や呼吸困難で死に至ることもあります。

結核予防会JATA

上海の病院に入院し1945年終戦を迎えますがすぐに帰れなかったようで、帰国は約1年後となりました。

【虎に翼】佐田優三が死亡するまでの経緯は?

虎に翼では、佐田優三と寅子はまだ付き合ってもいない状態でこれからが楽しみという感じです。

佐田優三が死亡するまで2人はどんな生涯を迎えるのか、モデルとなった三淵嘉子さんと和田芳夫さんの生涯から調査しました。

年月日出来事
1933年(昭和8年)佐田優三が猪爪家に下宿中
1940年(昭和15年)嘉子が弁護士登録、嘉子と和田芳夫が交際スタート
1941年(昭和16年)11月嘉子と和田芳夫が結婚
1941年(昭和16年)12月太平洋戦争勃発
1943年(昭和18年) 長男・芳武誕生
1944年(昭和19年)和田芳夫に召集令状届くも、結核の骨膜炎発覚し兵役免除
1945年 (昭和20年)和田芳夫に2度目の召集令状。断れずに入隊
和田芳夫、中国に渡ってすぐに結核を再発し上海の病院に入院
1945年(昭和20年) 8月15日終戦
1946年(昭和21年)和田芳夫帰国中に病状が悪化、長崎の病院で危篤状態
1946年(昭和21年)5月23日芳夫は家族に看取られず長崎の病院で死亡
1952年(昭和27年)嘉子が初の女性判事になる
1956年 (昭和31年)嘉子、裁判官・三淵乾太郎と再婚
1972年(昭和47年)嘉子、初の女性家庭裁判所長になる
1973年(昭和48年)嘉子、浦和家裁所長になる
1978年(昭和53年)嘉子、横浜家裁所長になる
1979年(昭和54年)11月3日嘉子、定年
1984年(昭和59年)5月28日 三淵嘉子69歳で死去

佐田優三と寅子の馴れ初め

佐田優三と寅子の馴れ初めは、

寅子が「佐田優三と結婚したい」と言ったから

です。

26歳で弁護士登録した寅子。

弁護士になった寅子の貰い手が無く、お見合いも上手くいかない状態でした。

三淵嘉子さんは父・貞雄に「好きな人がいるのかい?」と聞かれ、「和田さんがいい」と答えたそうです。

寅子はそんな素振りをあまり見せていませんでしたが、前々から寅子は佐田優三に好意を持っていたようです。

父・貞雄は佐田優三に「寅子が君を気に入っているが、どうだ?」と聞くと、佐田優三も寅子に好意があったのか交際がスタートすることになりました。

めちゃくちゃ想像できますね

寅子は佐田優三の死に目に会えない?

佐田優三は中国から帰国し、日本の長崎県の病院で亡くなります。(モデル和田芳夫の生涯を参考)

モデル和田芳夫さんと三淵嘉子さんと同様なら、

寅子は佐田優三の死に目に会えません。

1945年に召集されてから寅子と佐田優三が死亡するまで一度も会えなかったということになります。

寅子と佐田優三が会えなかった理由は、

本籍地(香川県)に連絡をしてしまい、寅子のいる東京に連絡がいくのが遅れたから

です。

佐田優三は香川県出身で、優三の父の兄弟が寅子の父と親友だったため、同郷の親友の甥っ子(佐田優三)を下宿させていたというわけです。

かなりやり切れない理由ですが、当時連絡を取る手段も限られたでしょうし、戦後すぐということで情報が入手しにくかったかもしれません。

優三死亡後の寅子は?

佐田優三が死亡後の寅子は、

息子・芳武とともにシングルマザーとして生きて行きますが、10年後に再婚

します。

1956年(昭和31年)寅子は42歳

三淵嘉子さんの再婚相手・三淵乾太郎さんは裁判官で『虎に翼』では岡田将生さんが演じます。

お互い子どもがいての再婚だったそうです!

三淵嘉子さんは、1984年5月28日に69歳で亡くなります。

三淵嘉子さんの死因は骨肉腫です。

嘉子さんと芳夫さんの命日の日にちが近いのも不思議な縁を感じてしまいます…

余談ですが、ブギウギの笠置シヅ子さんは1985年3月に70歳で亡くなってるの、ほぼ同じ時代を生きていたんだね

とっても面白い虎に翼ですが、涙なしに見られない展開になっていくようで見逃せませんね!

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